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タイトル : 琥珀色の日々

1 コンキスタドール

2002/11/13 17:48

私はいつ頃からかハッキリしないが漠然と酒に強くなりたいと思っていた。男は酒が強くなければ駄目だと思い込んでもいた。
これは一種の強迫観念の様な物だろうか?
最初の酒との出会いは大学時代に遣ってきた。酒と言っても最初はビールだけだったが。

スキーの同好会に入って、授業のない日は陸上トレーニングの毎日だった。陸上トレーニングの後、時々皆で近所のビヤホールへ行った。
実はこれが私の最大の楽しみだったのだ。ビールが飲めるかも知れないと思うから陸上トレーニングに参加していた様な物で、これでは本末転倒である。
兎に角、汗をかいて喉が渇いているので、大ジョッキの生ビールは非常に美味かった。大ジョッキの生ビールを二杯でも三杯でも飲める自分を何か誇らしく感じていた。
今思えば、これはとんでも無い勘違いなのだが、その当時はそんな事に気付きもしなかった。

スキー合宿の納会で私は始めてウイスキーを飲んだのだが、その時は美味いとは感じなかった。そもそも飲み慣れていないしストレートで飲まされていたので、それは当然だろう。今でも私はウイスキーをストレートでは飲まない。
当然の様に悪酔いしてゲーゲー吐いた。それは非常に苦しい物だったが、私は厭だとは思わなかった。ウイスキーでもブランデーでも何でもかんでも幾らでも飲める男になりたいと思った。

私が本格的に酒を飲む様になったのは社会人になってからである。社会人になると酒を飲む機会が一挙に増えた。
しかしその頃の私は現在の様に酒にはまだまだ強くはなかった。ビールは何とか大丈夫だったが、ウイスキーを飲み過ぎて必ずと言って良い程、悪酔いしてゲーゲー吐いていた。
飲んでは吐いて、吐いては飲むの連続だった。皆にも大分迷惑を掛けてしまったのだが何故、そんなに無理をしたのかと言えば只、酒に強くなりたかっただけだった。ウイスキーを幾等飲んでも平気な男になりたかった。詰まりこれは私にとっては訓練であった。
そして私は徐々にではあるが確実に強くなっていった。

その頃、何等かの宴会の後の二次会では大抵、「マリーナ」と言うスナックに行った。
私の飲酒歴を語る上でこのスナックは非常に重要な位置を占める。全てはここから始ったと言っても過言ではないし、「原点」と言っても良いだろう。
「マリーナ」へ行けば大抵、何人かの先輩達がいた。詰まりここは我々の溜まり場だった。飲んでは喋り時々、カラオケも遣った。本当に愉しかった。

私は何日しか一人で「マリーナ」へ行く様になった。現在の私は基本的に一人で飲みに行くのが普通なのだが、その頃はようやく一人でも飲みに行ける様になったと言う事だろう。
一人で飲みに行くと言っても大勢連れだって行くのが面倒なだけで孤独にひたって何も喋らず黙々と飲み捲くると言うのではなく、ママさんと世間話などをしたりするのが愉しかったのだ。

終電が過ぎて近所の先輩や同僚の部屋に泊まるなんて事は良くあった。それが二晩続いた事もあった。色々な事があった。
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2 コンキスタドール

2002/11/14 00:38

スナック「マリーナ」は雑居ビルの5階にあった。エレベーターを降りて直ぐの左側である。
ある日ちょっと久し振りに「マリーナ」へ行こうと思った私は吃驚した。エレベーターを降りた左側の通路は大量の花で一杯だった。
詰まり「マリーナ」は何時の間にか閉店していて、その日は新しく開店したスナックの開店祝いの真っ最中だったのだ。
余りに意外な光景を前にして私は狐に化かされた様な気分だった。私にとって唯一の憩いの場であった「マリーナ」は一体、如何してしまったんだ?大体「マリーナ」が閉店するなんて話は全く聞いていなかったし、そんな事は全く想像していなかった。

しかし無くなってしまったのだから如何しようもない。普通だったらその儘、帰るところだろう。今思えば、もしその時、直ぐに帰っていたらその後の私の人生は大きく変わっていただろうと思う。詰まりこれは私の人生にとっての大きなターニング・ポイントだったのだ。

開店祝いをしているスナックは「圓」と言った。私は何故かそのドアをそうっと押し開けて中を覘いてみたのだった。「マリーナ」が如何したか気になった事もあったかも知れないがハッキリしない。
店内では大勢のサラリーマン風の男達が飲んでいたが、その中に見知っている顔があった。「マリーナ」のホステスさんだった。
見知っている顔が無ければ幾等何でも店中に入ると言う事はなかっただろうと思う。私はそこまで図々しい人間ではない。しかしあったので私はノコノコと店内に入り結局、私はタダ酒をたらふく頂戴したのだった。

「マリーナ」のママさんが如何なったかは結局、解らなかった。しかしもうそんな事は如何でも良くなってしまった。
私はやがて「圓」に入り浸る様になった。
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3 氷犬

2002/11/14 00:55

お、コンキスタド−ルさんも昔語りか。
酔夢譚になるんか、郷愁譚か・・・・興味深く読ませてもらうで。

記憶の糸を解きほぐして文章に綴ってくのは、結構はまるで〜。
(最近わしはずぼらしてるけど。(笑))
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4 コンキスタドール

2002/11/14 01:53

氷犬さん、有り難う御座います。宜しくお願いします。
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5 コンキスタドール

2002/11/14 17:20

スナック「圓」に同じ会社の人がやって来る事はなかった。私も人を誘う事はなかった。毎度一人で飲みに行っていた。
そして今思えば、ここは次のステップへのジャンプ台みたいな物だった。

「マリーナ」の時は大抵、会社の人が何人かいたので会社の人と喋る事が多かったが、「圓」では知り合いの客はいなかったので、自然にママさんと世間話に花を咲かせる事が殆どだった。何の話をしたかは全く覚えていない。きっと下らない話ばかりしていたのだろう。

その頃には私は酒には大分強くなっていて、ウイスキーを何杯飲んでも気持ち悪くなるなんて事は全くなくなっていた。その代わり二日酔いで会社を休むと言う事は度々あったが。
休暇届の理由の欄に私は真っ正直に「二日酔い」と書いて皆に笑われた事があった。無邪気だとも言われた。その頃の私は実際、そうだったのだ。

この頃から私の酒の飲み方は変わってきている。詰まり飲食料金は給料日に纏めて払うと言う事である。早い話がツケで飲む様になった。その後、殆どの店でもそれが習慣化されていく。
給料の約半分は「圓」のママさんに直行した。その度に私は、これじゃ駄目だと反省するのだったが、仕事が終わると大抵、脚は自然に「圓」へ向かっていた。
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6 コンキスタドール

2002/11/14 18:59

ある日、「圓」のママさんが店を野毛に引っ越すと言う。
横浜近辺に住んでいない人には解り難いかも知れない。「マリーナ」や「圓」があったのは横浜の福富町仲通であり、野毛はその隣町で福富町仲通と同様、横浜では有名な歓楽の巷である。

野毛の町へは先輩達に連れられて数回飲みに来た事があっただけで、馴染みが全くなかった。それが「圓」の引っ越しで野毛と言う町を良く知る事が出来たのである。これで私の飲酒に関する世界が一挙に拡大した。
「圓」が次のステップへのジャンプ台みたいな物だと書いたのはこの意味なのである。

野毛で飲む様になって気が付いた事だが、福富町には何かお高く留まっている様な、高慢な雰囲気があった。それに対して野毛は町全体が庶民的で非常に親しみ易いのである。野毛のそう言う柔らかい雰囲気が私は大いに気に入った。その為、それ以降の私は野毛で飲む事が常識になった。それは基本的に現在でも同じである。

店名は「圓」から「ヤング」に変わった。しかし私の方は何も変わらず、相変わらずツケで飲み捲くり、給料日にちょっと後悔する日々の連続だった。

やがて転機が遣ってきた。「ヤング」が入居している建物を全面的に建て直すので暫く休業すると言う事だった。
「ヤング」が休んでいる間はここで飲んでいればと「ヤング」のママさんに連れられて行った店が「ちどり」だった。
「ヤング」のママさんと「ちどり」のママさんは家が近所で以前から知り合いだったそうだ。

「ちどり」は非常に古い木造長屋の一角にあって、カウンターだけで六人程の客が入れば満員になってしまう程の小ささだったので野毛の鹿鳴館などとも言われていた。
非常に気さくで陽気でお喋り好きなママさんが一人で切り盛りしている「ちどり」はそう言う意味でもっとも野毛らしい店だと思う。私は大いに気に入った。

「ヤング」と比べて「ちどり」の安さは驚異的とも言えた。「ヤング」が高過ぎて「ちどり」がちょっと安かっただけかも知れないが、私は驚いた。
それで私はもう「ヤング」で飲むのは止めた方が良いだろうと思う様になった。この儘、「ヤング」で飲み続けていたら私の人生は完璧に崩壊するのではないかと危惧したのだ。しかし踏ん切りが中々付かないのだった。

しかし「ちどり」のママさんが悩んでいる私を説教してくれた。しっかりしろと。それでようやく私は「ヤング」と縁を切る事が出来たのだった。
しかし「ヤング」と言う店が悪いのではないだろう。安くはないのにそこに通い続けてしまう私が悪かったのだが。
こう言うのを庇を貸して母屋を取られると言うのだったか?違ったか?
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7 コンキスタドール

2002/11/15 16:39

「ちどり」はそれまで私が主に飲んでいた店とは雰囲気が大分違っていた。
客同士が直ぐに友達になれるのだった。これには私も吃驚したが、「ちどり」には客を自然にそうさせる明るい開放的な雰囲気があったのだ。ママさんの人柄の良さもそれに大いに貢献していた。だから店内にいる人間全てが同じ話題で大いに盛り上がる事は日常茶飯事だった。

客層は港湾関係が多かったと思う。それから市役所関係である。
名前は忘れたが、市役所の人とどちらが早く「ちどり」に到着するか競争している様な感じになった事もある。早く到着したからと言って特に良い事もなかったのだが、冗談みたいな物だった。

月曜日から金曜日まで、土曜日が仕事の時は土曜日までの毎日(当時はそうだった)、私は5時過ぎに仕事を終え、脇目も振らず真っ直ぐ「ちどり」へと向かった。遅くとも5時25分頃には「ちどり」に到着した。だから大抵、私が一番乗りだった。ある月は無遅刻・無欠席だった。
その頃の私は焼酎なども飲む様になっていた。その少し前に酎ハイがブームになっていたと思う。だから「ちどり」では主にウイスキーより安い焼酎をボトルキープして飲んでいた。

「ちどり」には時々、「ヤング」のママさんが来る事もあったが、私はもう懐かしさを感じるだけだった。やがて「ヤング」のママさんは故郷の千葉に戻ったと言う話を聞いた。

早い時間帯ではママさんと二人で旅番組のテレビを見ながら飲む事もあった。
テレビが終わるとママさんには色々な話を聞いた。兎に角、「ちどり」のママさんは物凄いお喋り好きで私はそれを肴に焼酎を飲むと言った感じでもあった。
今でも覚えている印象的な話は二つある。

ママさんは数年前に離婚していて娘が一人いる。私よりも年下のその娘さんは当時、市役所だか区役所で働いていたのだが、ボーナスの額が私よりもかなり多かったのだ。正直言ってこれはショックだった。公務員は恵まれ過ぎている!
もう一つはママさんが冠婚葬祭か何かで久し振りに故郷(確か長崎だったか)へ帰ったら、水商売をしていると言う事だけで身内から真面な人間扱いして貰えず非常に口惜しい思いをしたと言う事である。これも私はショックだった。日本と言う国は未だそんな状態だったのか!

「ちどり」の真向かいには「名月館」と言う焼肉屋があった。ある日、ここの牛のレバ刺しは最高に美味いんだとママさんが言うので出前して貰って食った事がある。成程!これは本当に美味かった。だからそれ以降、出前を頼む事が度々あった。クッパも美味かった。

「ちどり」では他にも非常に印象的な出来事があった。
港湾関係の仕事をしている人から普通、日本国内では手に入れる事が出来無い物を譲って貰ったのだった。その人は外国船員から買ったらしい。それは今でも重宝している。
それは何であるかは差し障りがあるのでここには具体的に書かない方が良いと思う。他人に迷惑を掛けたり危険な物ではない事は確かである。
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8 コンキスタドール

2002/11/17 01:15

先ず訂正から。
7番で《「ちどり」の真向かいには「名月館」と言う焼肉屋があった。》と書いたのだけれど「名月館」ではなく「明月館」だったかも知れない。ハッキリしないのだけれど牛のレバ刺しが美味かった事は間違いない。

それである日、「ちどり」で飲んでいるとママさんは、「大鵬」のママさんは凄い綺麗な人だねェと言う。高くなくてメニューもここと違って沢山あるから行ってみればと勧めてくれるのだった。

「大鵬」は野毛の隣の宮川町にあった。町の雰囲気は野毛と全く同じである。ママさんが綺麗で安くてメニューが豊富なのであれば行かない訳にはいかないので早速、翌日行ってみた。

確かにメニューは豊富だ。店の壁中にメニューを書いた紙がビッシリと貼り付けてあった。そして安いしボリューム満点で非常に美味い物ばかりだった。刺身と天婦羅がメインである。
中でも山海スタミナ盛りが傑作である。納豆の上に色々な刺身がタップリと乗り、オクラや山芋のせん切りなどの野菜類もドッサリと乗っている。それを徹底的にかき混ぜて食うのである。それで値段は4〜500円位だったと思う。これは最高だった。
私は「大鵬」が大いに気に入った。そして殆ど毎日の様に通った。

ところで「ちどり」も「大鵬」も非常に素晴らしい店なのだけれど足りない物が一つだけあった。カラオケである。
だからある日、私は「ちどり」のママさんに、余り高くなくてカラオケが出来る良いスナックはないかと聞いてみた。それで紹介してくれたのが「宝殿」であった。

「宝殿」も宮川町にあった。マスターは市役所を脱サラした人だった。その所為か女性客が割合多かった。週に一回、高島屋の綺麗なオネーサン達が大挙して遣ってきて本当に凄かった。
テレビがあって当時としては最新式のレーザー・カラオケも完備していて、飲めや歌えやのドンチャン騒ぎを演じた。本当に楽しいスナックだった。
マスターは人生経験が豊富で色々な話を聞いたりもした。勉強にもなった。

「宝殿」には数回、会社の同僚を連れて行った。
二人で大いに盛り上がって終電が無くなり、レールの上を歩いたり、電車の鉄橋を歩いて渡ったりして、同僚のアパートまで行き、泊まった事がある。
後日の昼間、その鉄橋を下から見上げ、俺はあんな所を歩いたのかと恐怖に駆られた。酔っぱらっていたから出来た事なのだなぁ。

「宝殿」の斜向かいには「大五郎」と言う活魚料理の店があった。落ち着いて渋い感じの店構えである。マスターに聞いてみると、高くはないし良い店だと言う事だったので後日、早速行ってみた。
確かに素晴らしい店だった。カワハギの叩きの美味さには本当に吃驚した。見てくれの悪い魚は本当に美味いのだと聞いていたが、その通りだと思った。
しかし参ったのはクサヤだった。これを焼いている時に物凄い悪臭がするのである。こう言う物を好む人がいると言う事が私には信じられないのだが、止めろとは言えないので私は我慢していた。ようやく焼き終わってヤレヤレと思っていたら又、別の客がオレにも焼いてくれと言うのには愕然とした。
暫くして「大五郎」のオヤジは離婚してしまい、店を閉じてしまった。これにはガッカリした。

それにしても私は泥酔すると時々、逆方向に行ってしまうのだった。逆方向の電車に乗ってしまい、気付いたら大船駅だったなんて事があった。
しかし自分で一番驚いたのは駅とは全く逆方向に歩き続けた事である。「宝殿」の帰りだった。ふと気付くと、私は隣の区の全く知らない深夜の住宅街をドカドカと歩いていた。何故、私がそんな所を歩いていたのかは今でも全く解らない。あれには本当に参った。
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9 コンキスタドール

2002/11/17 17:53

いつの間にか私は仕事が終われば真っ直ぐ「大鵬」へ行って酒を飲む事が習慣になった。仕事をしている最中も「大鵬」へ行ったら今日は何を飲んで何を食おうかなどと考えたりする始末である。そして「大鵬」で先ず腹拵えをしてから「宝殿」へ行ってカラオケなどで騒ぐと言うコースが最も多いパターンであった。
「大鵬」ではやはり焼酎をボトル・キープして飲む事が多かったが、偶には高級なウイスキーを特別注文してボトル・キープして飲んだ事もあった。
鮟鱇の胆(アンキモ)が本当はこんなに美味いのだと知ったのも「大鵬」でだった。以前食べたのは缶詰の粗悪品だったのだろう。

「大鵬」に通い続ける内に何人かの人達と顔馴染みになって世間話に花を咲かせたりした。その中では市役所に勤めている内藤さんに特に世話になった。
「大鵬」で飲んだ後、内藤さんには色々な店に連れて行って貰ったが、その中では「國」と言う店が非常に素晴らしかった。
今思えば内藤さんに「國」と言う店を紹介して貰った事が私の飲酒の歴史に於いてはもっとも重要な出来事であった。正に画期的だった。内藤さんにはいくら感謝してもしきれないのである。

「國」も野毛にあり、和服のママさんが仕切る、カウンターだけの狭い店だった。だから「ちどり」と似ている部分もあるが、レベルは「國」の方が圧倒的に上だった。
先に結論を書いてしまえば現在、「國」が酒を飲む環境としては最高である。あらゆる要素のレベルが今までの店よりもワンランク上だった。
ワンランク上だと言う事は、料金の方も他の店より多少高かったが、高いだけの事は充分にあったので全く文句は無かった。

「國」で飲む様になった頃から私の酒の飲み方、その考え方は徐々に変わってきている様に思う。以前は只、酒を飲んで酔っ払って、カラオケなどで騒げれば良かった。それだけで満足していた。
しかし「國」では美味しい酒や美味い料理をジックリと味わって楽しむ様になった。それだけ心に余裕が出来たのかも知れない。
酔っ払って憂さ晴しをする事が酒を飲む目的ではなくなってきたのだろうと思う。仕舞いには酒を飲んでも酔っ払う必要はないとまで思う様になった。飲めばやがて如何しても酔っ払ってしまうのだけれど。
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10 コンキスタドール

2002/11/19 00:58

「國」で食べる物や飲む物は全てが最高に美味かった。先ず仕入れる食材の品質自体が今までの店よりワンランク上だったのだが、何と言ってもママさんの料理をこしらえる上での真剣さと深い愛情だろう。卓越した技術を持っている事は言うまでもない。
「國」で私はマグロのトロの刺身を味わった事があるが、それは私が今まで口にした食物の中で最高の美味さだった。あれはもう絶品であった。

飲み物に関してもママさんの気の使い様は吃驚する程だ。ビールなどは冷蔵庫ではなく、氷で冷やしていた。
日本酒をお澗するのに電子レンジや専用の機械を使う店は多いのだが、「國」では一本一本薬罐でお燗をしていた。そもそも「國」には電子レンジがなかった。
冷酒の美味さを知ったのも「國」だった。玉乃光と言うメーカーの物だが、この美味さは感動的である。あの香りの良さも忘れられない。
ワインも「國」で始めて飲んだ。これも美味かった。一晩で三本も飲んでしまった事もあった。
しかしやはり焼酎やウイスキーをボトルキープして飲む方が多かったけれど。

「國」のママさんからは色々な話を聞いたが、その中でもっとも驚いたのはママさんの前歴である。これには本当に驚愕した。
続きは次回にしよう。
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11 コンキスタドール

2002/11/20 01:19

私はギャンブルには全く興味はないのだが、競輪の選手は現在、男だけだと言う事位は知っていた。しかし昔は女性の競輪選手もいたのだそうだ。
1956年には新東宝で「女競輪王」と言う映画が制作された程だ。どんな映画か全く解らないが、見てみたいものだ。

「國」のママさんは昔、競輪の選手だったのだそうだ。

いつも和服を着ていて京都弁でおっとりとした女性が競輪選手だったなんて私は全く想像の埒外だった。現在のママさんの姿を見ていたらそんな経歴は全く信じ難い事だが、よくよく話を聞けば嘘ではない事が解る。
昔、ママチャリの後ろに娘を乗せて走っていたら、娘にママは自転車を漕ぐのが上手ねと言われたのだそうだ。そりゃそうだろう。

ママさんには娘は二人いた。二人の娘はちょくちょく店の手伝いに来ていたが、二人とも非常に明るく、剽軽で、それでいて物凄い美人である。私が「國」を気に入った原因はここにもある。
長女のいづ美さんは日本古来の美人と言えるだろうか。それに対して次女の愛美さんはモダンな美人である。始めて愛美さんを見た時は、この人は宝塚の女優かと思った程だった。

実際、愛美さんは舞台女優の仕事もした事があったそうだ。しかしその時は歌手だった。「甲里玲奈」と言う芸名でパブやクラブで歌っているのである。
私もライブハウスでの愛美さんのコンサートを聴いた事がある。ポピュラーとジャズがメインで、それは素晴らしい物だった。
愛美さんは店でも時々、カラオケを遣っていたが、私はプロとアマチュアの差を痛感した。我々アマチュアはお金を払って歌わして貰っているのだが、プロはお金を貰って歌うのである。
カラオケが上手なアマチュアは沢山いるだろうが、プロには全然かなわないのだ。当然だろうが。

いづ美さんは既に結婚していたが、愛美さんはまだ独身だった。私も愛美さんと付き合えたら良いなとチラッと考えた事はあるが、気後れしてしまってデートに誘うなんて事は全く出来無かった。
それから愛美さんは霊感が非常に強かった。例えば明日の昼、私が何を食べたいと思っているかとか、今聴きたい曲は何かなど他人には絶対に解るはずのない事を愛美さんは全て言い当ててしまったのだった。
あれには正直言って吃驚した。当然、事前にそんな話は全くしていなかったのだが。
ちなみに明日の昼に食べたいとその時、思ったのは「スパゲティ」で聴きたいと思ったのはビリー・ジョエルの「オネスティ」だった。
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12 氷犬

2002/11/25 02:13

>気後れしてしまってデートに誘うなんて事は全く出来無かった。

コンキスタドールさん、
う〜ん!惜しい事やなあ。
人生に於いて(て言うたら大層やな。(笑))自分の美的感覚やら価値観やらで極上と思う相手と知り合う事て、そんなに数多い訳や無いよな。(男にせよ、女にせよや。)
例えば、もの凄い美人。例えばもの凄い才媛。例えばもの凄く優しい女性。
その数少ないチャンスを、「気後れ」如きで棒に振ったんやで。
もしかしたら誘ってOKもらえたかもしれんし、そこからなにやら発展したかもしれへんわ。
わしは「ダメで元々、恥かくのも一興、ものにする気概が大切や!」て思いが強いんやな。ええ女がおると、ことごとくチャレンジしてこましたるわ。
勝率は3割5分2厘7毛位やけど。(ほんまかいな!(笑))
ええ女もそうでないのも、同じ人間や。ついでにええ男もそうでないわしみたいなのも、同じ人間や。加えて、どんなに凄い肩書きが有るお偉いさんも、わしみたいな前科者も、同じ人間や。
どんなもんにも、中身が濃い人生が有る。それに自信もたな。
何につけ、気後れしたくないなあ。
勿体無いで!(て、今更言うてもどうしようも無いやろけど。(笑))


もしかしたら、この後に「むふふ」な展開が有るんやったら、勘弁な。
削除キー   

13 コンキスタドール

2002/11/26 17:40

氷犬さん、私にはやはり勇気がなかったのだと思います。
また愛美さんは皆のアイドルでもありましたし、私一人が抜け駆け出来無い雰囲気もありました。

愛美さんは数年後、大変な事になるんですが、それはまた改めて書きます。
削除キー   

14 氷犬

2002/11/27 01:26

「大変な事」・・・・気になるがな。
削除キー   

15 コンキスタドール

2002/11/27 17:21

「國」は私が今まで飲んでいた他のどの店よりも断然素晴らしい店なのだが、私がその良さが解る年齢になっていたのだとも言えると思う。もし私がまだ二十代だったらそんなに良いとは思わなかったかも知れない。
前に私は酒を飲んでも酔っ払う必要はないと思う様になったと言った事を書いたが、それは本当である。と言うよりも酔っ払いたくないと言った方が正確かも知れない。「國」の酒と料理の美味しさをズーッと味わっていたいのである。
しかし結局は泥酔してしまい、記憶が無くなる事がしばしばであったが。

そして暫くして愛美さんが入院してしまった。血便が出たらしい。つまり胃癌である。
私はショックだったが、もっとショックだったのはママさんである。ママさん自身以前、乳癌を患った事がある様で毎日の様に病院に見舞いに行って、「國」の開店がしばしば遅れる様になった。
愛美さんは結局、胃の大半を切り取ってしまったが何とか退院出来たのだった。

しかし翌年、愛美さんの癌は再発してしまった。また同じ病院に入院したが、今度は歩いて退院する事は出来無かった。
愛美さんは結婚する事なく、子供を産む事もなく死んでしまったのだった。享年三十三歳であった。
削除キー   

16 コンキスタドール

2002/12/20 01:35

私は「琥珀色の日々」と題する駄文を何回かに分けて気儘に書き続けてまいりました。
そこで愛美さんと言う素晴らしい女性の死を一つの区切りとして、今まで書き続けてきた物を改めて見直して自分なりに書き直して一つの文章として後日、纏めてみようかと目論んでいます。
これは単なる私の自己満足に過ぎないのですが、宜敷くお願いします。
削除キー   

17 うる

2002/12/20 17:48

うーん。
無理して纏める事も無いんじゃないでしょーか?

途中で「あいの手」が入ってる文章を読むのも、BBSの楽しみの一つですからね。
同一文章を纏めただけの、内容が重複しているスレッドを立てるのも、どーかと思いますし。
そのスレにレスが付いたら、結局同じ事ですしねー。

削除キー   

18 コンキスタドール

2002/12/20 21:05

うるさん、ちょっと違います。新しいスレを立てるのは止めました。
ただ単に自分なりに書き直してみようかと思っただけなんです。
削除キー   

19 虚言癖者

2004/10/16 01:08

こんな物がまだ残ってたのか?
削除キー   

20 CONQUISTADOR

2010/04/04 19:12

私は色々あって野毛からは一時期離れていました。本好き連からも離れていました。離れざるを得ません。
野毛の「國」はいつの間にか無くなってしまいました。
これは仕様がないことなのですが、非常に残念でした。
最近の私は野毛の「山荘」で呑んでいます。
皆さん、良かったらどうぞ!
削除キー   

21 根気

2011/01/01 23:08

何故?何故?
削除キー   

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